丹生川町新張 橋塲 康夫 さん (76歳)
私は、昭和24年に現在の高山市岩井町で生まれました。両親は農林業を営んでいました。
そうした中、昭和33年に大雨が降り我が家の田畑が流出してしまいました。私は小学4年生でした。家族で相談した結果、失った田畑の復旧を諦め、当時進められていた上野開拓事業に途中入植させてもらうことになりました。そのため、現在暮らしている新張上野へ引っ越し、小学5年生で上野小学校へ転校しました。
中学は丹生川中学校へ通いました。科目を選択できる制度があり、「英語」か「農業」かを選ぶことができました。私は農業に興味があったので、迷うことなく農業を選びました。現在の中根の堆肥舎あたりに学校のりんご園があり、そこへ行くのが楽しみでした。また、農繁期で忙しい家では、親の意向で子どもたちが学校を休んで家の手伝いをすることが許される良い時代でした。親から手伝ってほしいと頼まれると「学校休める!」と、内心嬉しかった記憶があります。
中学校を卒業すると、もちろん勉強は嫌いだったので働きたいと思い、3年間ほど地元の土建会社に勤めました。色々なことを覚えさせてもらいました。特に良い思い出となったのは、夏場に泊まり込みで乗鞍岳のコロナ観測所や宇宙線観測所の建設工事に携われたことです。山頂から観る星空は格別でした。
その後、家の農業を父から任されました。水稲栽培から始め、稲を育てることで農業のおもしろさを味わい、熱中しました。米の生産調整に伴う「水田転作事業」を前に、この地域では昭和42、3年ころからほうれん草や夏秋トマト等の雨よけハウスが導入されました。私は、昭和52年から夏秋トマトの栽培を始めました。
年々規模拡大をしていく中で転機となったのは、国営の飛騨東部農地開発事業でした。大萱の滑谷重和さんのご理解とお力添えのお陰で、保木ヶ谷団地へ仲間入りさせてもらいました。この取り組みが奏功して雇用の拡大につながり、冬期雇用の必要性へ発展したことで冬場のしいたけ栽培を始めることになりました。
そうした中、平成4年から2年間、丹生川村蔬菜出荷組合の組合長を引き受け、不安な思いでしたが他の役員の皆さんから温かいアドバイスをいただき、共に楽しく務めを果たすことができました。また、視察研修では各地の農業者の取り組みを視察し、相互交流を通じて勉強させてもらえたことは、かけがえのない財産となりました。
また、平成12年には岐阜県指導農業士の認定をいただき、若い農業研修生を受け入れさせてもらう中で、若い人たちと接する機会を得ることができました。逆に自分自身が元気をもらい、学ばせていただくことができ感謝しています。研修期間を終え、1農業者として頑張っている姿を目にすることは、何よりの喜びとなっています。
平成19年には「日本農業賞」大賞をいただくこともできました。
私も年を重ね、令和3年には息子夫婦に有限会社橋場農園の会社経営を託し、長年の夢であった「高糖度トマト」の通年栽培に挑戦しました。簡単ではないですが、新たに立ち上げた「株式会社農笑塾」の社員とともに夢を追って日々格闘中です。
最後に、私がこうして自由に農業を楽しめたのは、女房をはじめ家族のお陰だと、いつも感謝しています。
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